今回の記事の内容は精神分析の仮説について私が感じていることです。

意識されることなく生じるとされる防衛機制

それは防衛機制と呼ばれる心の働きで、その特徴は自覚なしに特定に考え方や行為が生じる、つまり無意識の心理や行為であるということです。

この定義から防衛機制は、自分では自覚がないのに周囲の人からは観察可能な事柄についての理解を深めるのに役立つと共に、例えば妄想と片付けれてしまいがちな考え方などをも了解可能なことにするなどして、統合失調症をはじめとした精神病水準の方の心理の理解にも役立ってきました。

防衛機制の無意識性の起源に関しては考察がなされていない

以前はこの防衛機制の「無意識の心理」という定義を無条件に受け入れていましたが、少し前から元々はどうだったのだろうとの疑問を感じるようになりました。
つまりその心理は生まれながらに無意識化されたものだったのか、という疑問です。

この疑問に関しては、それについて直接言及した精神分析の記述を目にしたことはありませんので、私自身の見解を述べたいと思います。

人間は多くのことを無自覚に行っている

防衛機制の無意識性の起源を探るヒントになることとして、人間は実は多くのことを無自覚に行っていることを挙げることができます。

例えば歩く時には手と足を互い違いに前に出しながら進みますが、そのことを普段は意識することはありません。
しかしこれはとても不思議なことで、自分の意志とは関係なく体が勝手に動いている訳ではないことを考えますと、自分の意志で体を動かしているにもかかわらず、その体の動きについてはほとんど意識していないことになります。

意図的な行為も繰り返されることで無自覚になって行く

この意図的な行為であるにもかかわらずそれが無自覚に行われることの説明として学習効果を上げることができます。
その分かりやすい例が自転車です。

誰でも最初はなかなか自転車に乗れず、倒れないように懸命にバランスを取ろうと努力しますが、このバランスを取るためには体に注意を向け自覚的にその操作を試みます。
しかし一たび乗れるようになると、もうバランスを意識しなくても倒れることなく走行できようになります。

ですが最初はどんなに頑張っても上手く乗れなかったように、自転車の操縦と言うのはかなり高度な運動能力を必要とする行為のはずですので、無理なく乗れるようになった後でもその能力を活用し続けているはずです。
しかしあまりに楽に乗れるようになってしまっているので、もはやバランスを取っているという感覚さえハッキリとは自覚できなくなっています。

これは私見ですが、最初は意図的な行為も何度も繰り返されることで学習効果が働き、やがて意識せずに行うことができる。人間はこうした学習を繰り返すことで多くのことをスムーズに行い、それによって他のことに意識(関心)を向けつつ生活しているのではないかと考えられます。

防衛機制や無意識的な行為の多くは、最初のうちは意図的に行われていたもの

さらにこれも私見ですが、上述と同じ学習効果が心理面にも働き、同様の無自覚化が生じているのではないかと考えられます。

もしこの私の考えが妥当なものであれば、例えば以前に自己愛講座として投稿した「理想化-価値下げ」についても、最初のうちは誰かや何かを過度に理想視したり、その反対に蔑むことを自覚しながら行っていても、そのような行為が習慣化することで、やがて「いつも行っている当たり前のこと」として半ば自動化され特別意識されることさえなくなって行く。
これが幼少期の心性がそのまま維持されたものではなく、それ以降に形成された防衛機制やその他の無自覚な思考や行為が生まれるプロセスではないかと考えています。

無自覚な行為だからといって自分には非がないとは言えない

最後に今回このような記事を書いたのは、今後の記事の参照のために加えて、防衛機制をはじめとした無自覚な思考や行為が、それが定義上は自覚できないものであることから自分の行いであるとの実感が乏しく、そのためそれが好ましくないものであっても反省が生じづらい傾向があるためです。

ですが今回指摘したように、もし習慣化されることによって無自覚になって行くのであれば、当人の意識的な努力の産物ということになるため、自分には非がないとはとても言えないことになります。

もっともこの無自覚性についても実は疑問を持っています。
そのことについては次回以降に病態水準の話と絡めながら記事にする予定です。

補足)フロイトは無意識という概念を、単に無自覚なだけではなく、意識しようとしても簡単には自覚できず、彼が開発した自由連想法などの特別な技法によってしか意識化できない心の領域と定義しました。
それに対して一時的に無自覚なだけですぐに意識化できるものを前意識と名付けました。
ですから私たちが気づかずにしてしまったことに対して使う「無意識にして行ってしまった」という言い回しは、厳密には誤りと言うことになります。