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自己愛性人格障害・自己愛障害 一覧


昨晩、NHKEテレで「いじめをノックアウトスペシャル 第8弾」という番組が放送されていました。

録画予約してまだ見ていませんので、この番組ではどうだったのかは定かではありませんが、こうした討論番組に登場する当事者である中高生の方からしばしば(「も」ではなく)「いじめられる方に問題がある」旨の発言が発せられることがあります。
今回はこの発言を頼りに、その是非(善悪)を問うことよりも、その背後に働く心理的な要因を考察してみたいと思います。

中高生の間では「いじめられる方に問題がある」旨の考えが力を持っている

「いじめられる方に問題がある」旨の発言が特に印象に残っているのは10年近く前に同局の「Rの法則」で放送された、いじめ特集です。
レギュラーメンバーの中高生(大半は高校生)が、いじめについて討論していましたが、誰が一番悪いのかという犯人探しの展開の中で、いじめとは「いじめられる人がいじめられて当然のことをするから起こるものである」との見解が主流を占めていました。
さらにその、いわば自業自得であるにもかかわらず自殺する人がいることに対しても「親を悲しませて申し訳ないと思わないのか」と容赦ない批判に曝されていました。

ですが、いじめの熾烈さを考えますと、この考えに従えば周囲の人から見て弁解の余地がないほど明らかに酷いことをしたからこそ「いじめ」という行為によって罰せられる(報復を受ける)、それゆえの自業自得であり、そうであれば自分が「いじめ」のターゲットになる可能性をそれほど心配せずに済むはずです。
しかし実際は、傍観者の大多数の人が懸念しているように、少しでも目立てば今度は自分が「いじめ」のターゲットにされかねないとの不安が蔓延しているようです。

補足)この他に、少しでも相手の機嫌を損なえば「いじめ」のターゲットにされるとの不安も広く見られますが、こちらは些細なことでも自尊感情が傷つく人が増えて来ていることの反映と考えられます。
ですがそれについても後述の羨望による怒りの解釈で部分的には説明が可能と考えられます。

羨望による怒りが、いじめの一因となっている

ではなぜ少しでも目立つと、それがいじめの原因となってしまうのでしょうか?
あくまで私見ですが、その多くには一般的には嫉妬と呼ばれる羨望が関係していると思われます。

羨望とは、他人が自分にはないものを持っていることで羨ましさを感じると共に、その他人と自分とを比較して惨めさ無価値感を感じるもので、特に後者の感情が時に激しい怒りを生じさせます。
そしてその激しい怒りが、自分を惨めな気持ちにさせた相手を破壊したい(報復したい)との気持ちを生み、これが「いじめ」の一因になっているのではないかと考えられます。
例えば「あいつ、調子に乗りすぎている」と思い許せない気持ちになった時などが羨望の一例です。

羨望は相手の心に悪意を見てとる

また羨望が激しい怒りを生じさせるのは、自分が惨めさや無価値感を感じるからだけではありません。
それに加えて、事実に関係なく相手の心に悪意を見てとるためです。
例えば誰かが楽しそうにしていれば、その様子から「どうだ、羨ましいだろう」と、これ見よがしに自慢しているように感じられたりします。
そしてこの感覚が「傷ついた」のではなく「傷つけられた」という被害感情を生じさせ、その人を報復行為へと駆り立てます。

自己愛的な人は人間関係のあらゆることで羨望に駆られがちになる

これまでの自己愛講座で述べてきましたように、自己愛的な性格構造の人は自尊感情が著しく低いため常に自己価値(自分の存在価値)の問題に囚われ、また自尊感情を自分自身で高めることが困難であるため、それをもっぱら他人との関係の中で満たそうとする傾向があります。
そのため「理想化-価値下げ」の防衛機制が頻繁に働き、人間関係の優劣に囚われがちになります。
そしてその際、自分が上と感じるときには優越感を感じ自尊心が高まりますが、そうでなければ惨めさを味わい激しい羨望を抱くことになります。

また自己愛的な人は、人間関係を優劣を表すものと捉えているため、およそあらゆることにそれを見出し、その度に羨望に基づく怒りや不満を感じることになります。
例えばテストの点数の優劣だけでなく、たとえ同じ点数であったとしても自分の方が努力しているのに同じ点数であることが許せなくなります。
なぜならそれは自分の要領の悪さを示すものであり、そのことで惨めさを味わうためです。

さらには上述のような数値化されたものだけでなく、挨拶のされ方や何気ない仕草一つに一喜一憂したり、あるい「〇〇さんには~したのに私には...」と他人との関係で優劣を感じるというように、他人のあらゆる態度を自分に対する評価として解釈する傾向があるため、些細なことで傷つき、また他人との比較で羨望に駆られることになります。

いじめのターゲットは無秩序に選ばれるのではなく、どのようなことでも羨望の要因と成り得るため、そのように見えるだけ

自己心理学や一部の社会学では、日本人はそれをあからさまな態度に出さないだけで、内面は総じて自己愛的な性格構造に満ち満ちていると考えられています。
もしこの見解が妥当なものであれば、常に他人との優劣に囚われ、些細なことで傷つき、かつその自分を傷つけた相手に対して恨みを抱くことが、程度の差こそあれ個々人の心で頻繁に生じていることが予想されます。

ですから誰もがいじめのターゲットに成り得るように見えるのは、ターゲットが無秩序に選ばれるのではなく、むしろ明確な理由があり、しかしその理由がとても些細なものであるため、実質「誰でも」の状態になってしまっているのではないかと考えられます。

「いじめられる方に問題がある」旨の考えは自己愛的な性格構造と羨望の働きによるもの

最後に以上の考察から冒頭で紹介した「いじめられる方に問題がある」旨の考えは、自己愛的な性格構造および羨望の心理により生み出されたものと考えられます。

個々人が自己愛的であるがゆえに、人間関係の些細なことにまで優劣を感じて頻繁に傷つき、さらには羨望の働きによって、そこに相手の悪意を見てとる。
このため些細なことでも悪意に基づいた酷い行為とみなされ、いじめられて当たり前、自業自得という考えに至るのではないかと考えられます。


数日前に自己分析のブログに「どんな言いつけも絶対に守らなければならないと考えていた子供時代@自己分析」という記事を書きました。
今回はこの記事の私体験を元に、特に抑うつ型の自己愛的な人の「気質」と呼ばれる生まれながらの性格傾向について取り上げます。

生まれつき親の期待に非常に敏感な才能に恵まれた可哀想な子ども

リンク先に書かれていますように、幼少期の私は(文字どおりの意味で)どのような言いつけも絶対に守らなければならないと考えるような子供でした。
そのため「お昼ご飯は残さず食べなさい」という言いつけを守るために、自ら率先して床に吐いた食べ物まで食べようとしたのです。

私のような頑なさは極端な例としても、相手が自分に何を期待しているのかを非常に敏感に感じ取り、その期待に必死に応えようとする子供たちのことが以前に紹介した『才能ある子のドラマ』に綴られています。
そしてこのような子どものことを著者のアリス・ミラーは「可哀想な恵まれた子」と称しています。

才能に恵まれた子が、なぜ可哀想なのでしょうか?
いっけん相手の期待を敏感に察知し、それを満たせる人は「気が利く人」と評価されるなど、良好な人間関係を築けるように思えるかもしれません。
しかしそれは大人になるにつれ、そのようなスキルを徐々に身について行った人のケースで「気質」と呼ばれる生まれながらの性格傾向としてこのような才能を身につけている子どもの人生は、それとは大きく異なります。

その才能ゆえに親の期待を一身に受けることになる

どのような親でも人間である以上、子どもに「○○のような人間に育って欲しい」との期待を寄せ、その期待に適うように多少なりとも子どもをコントロールしてしまいがちです。

この場合、いちいち言わなくても自分が何を望んでいるのかを敏感に察してくれる子どもと、口やかましく言ってもなかなか言うことを聞いてくれない子どもがいたとしたら、どちらのタイプの子どもにその期待が向けられやすいでしょう?
答えはもちろん前者のような子どもです。何でも言うことを聞いてくれるので、とても楽だからです。いわゆる「手のかからない」子どもの典型です。

こうして生まれながらに親や他人の期待に非常に敏感に感じ取る才能に恵まれた子どもは親の期待を一身に受け、対してそうではない子どもはそれほど親のプレッシャーを受けることなく、ある意味伸び伸びと育って行きます。
うちの親も「弟には言っても仕方がないから、もう諦めている」が口癖でした。

期待は愛情とセットで注がれる

さらに違いは、これだけではありません。
聞き分けの良い子と、苦労が絶えない子とでは、どちらの子の方がより可愛く思えるでしょう?
こちらも恐らく前者でしょう。

こうして場合によっては溺愛に近いような愛情が偏った形で注がれるようになり、その結果渦中の子どもに対して「お前を愛しているからこそ人一倍期待もするのだ」、つまり「期待=愛情の証」というメッセージが届けられることになります。

これはその子にとって相当なプレッシャーです。
なぜなら少しでもその期待に背くことは、親の愛情を裏切り悲しませることになってしまうためです。
またそうして悪い子になってしまうことで親の愛情を失う不安も生じるため、その子はそれを回避するために益々その才能に磨きをかけ、これまで以上に親の期待に必死に応えようとするでしょう。

こうして親の期待に応えることが人生の目的そのものと言えるような、とても聞き分けの良い、親からすればある意味理想的な「良い子」が誕生します。

親の期待は愛情を一身に受けることは自己愛的な特権意識や優越感の温床ともなる

さらにこの才能がもたらす影響はこればかりではありません。
期待や愛情を一身に受けるということは、その子に「自分は選ばれた特別な子ども」との特権意識優越感を生じされ、これがDSMの自己愛性パーソナリティ障害の診断項目に列挙されているような特徴の温床ともなります。

こうして他人を強烈に蔑む一方で、他人のニーズに過敏に反応し従属するような態度を取るという自己愛特有の非常に二面的な性格構造を発達させていきます。

他方の子どもが反社会的な人間に育ってしまうリスクも抱えている

またこのような偏った子育ての仕方は、他方の子どもにとっても同じほどに有害です。
親から少しも期待や愛情を注がれないことがどれほど辛いことであるのかは説明不要でしょう。

またそのような無関心な親の態度があまりに酷いと、もっとも治療が難しく、かつもっとも犯罪率が高い反社会性パーソナリティの温床となります。

子どもが自分の思いどおりに育つことに何ら違和感を感じない親は極めて自己愛的な人間

最後に今回の内容の主たる原因が子供の悲劇的な才能にあるとの誤解を招くといけませんので、その点を補足します。

子どもの才能に促されたものとはいえ、平均的な親であれば、どこかの時点で子どもの様子や自分の態度に違和感を感じるはずです。
もしその違和感をほとんど感じず、子どもが自分の思いどおりに育っていることにただただ満足している親がいるとすれば、その親はコントロール欲求が非常に強く、他人を自分に満足感を与えるための道具のよう存在とみなしているような極めて自己愛的な人間でしょう。

参考文献

アリス・ミラー著『新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて』新曜社


今回の自己愛講座は、特に抑うつ型の自己愛的な人に当てはまることの多い、自ら不幸を招くような行動をとる傾向についてです。
その極端な例として、私の若い頃のエピソードを題材に考察を進めていきます。

知人が一緒にいるにもかかわらず瞑想を続ける

30代前半の頃の出来事です。知人とその人がよく行くお店にいったところ、その人の知り合いが大勢いて、このあと近所のカフェでみんなでお茶しようという話になりました。
ところがその場で話が盛り上がり、なかなかカフェに移動する気配がなく知り合いが一人しかいないため疎外感を感じ始めた私は、一人で先にカフェに移動して当時ハマっていた精神世界の本を読むことにしました。

しかしよほど話が盛り上がっているのでしょうか、なかなか知人たちがカフェにやって来ません。
そのため今度は自分の存在が忘れ去られているように感じ始め惨め気持ちになって来ました。
そこで気分を落ち着けるために、目を閉じて瞑想することにしました。

やがて知人たちがやって来ましたが、私は瞑想を止めませんでした。
それを見て気分を害したと思ったのでしょう。知人が遅れたことを詫びましたが私は「別に気にしてませんよ」と伝え、また目を閉じて瞑想を続けました。
するとどう対処して良いのか分からなくなり気まずくなったのでしょう。知人たちは別のテーブルで話を始めました。
私は自分が除け者にされたことで、ますます疎外感を感じました。

自覚なしに自ら不幸を招くような行動をとることで、他人を恨み不幸な人生を嘆く

ここで重要なのは、自分の行動が原因で余計に不愉快な思いをしていることについての自覚がほとんどないということです。

※ですからこの時の私の病態水準はパーソナリティ障害水準に、つまり自己愛性パーソナリティ障害もしくは回避性パーソナリティ障害の診断がつく可能性があると言えます。
(詳しくは「病態水準の違いによる、陰口や噂話の知覚や解釈の仕方の変化」をご覧ください)

そして自分が原因の一端を担っている自覚がないために、不快な体験をすれば、それは半ば自動的に他人のせいとされます。
このため親しい人に対してさえ些細なことから恨みを抱き、それが元で簡単に疎遠になってしまうことも少なくありません。

また、その他人から嫌な目にばかり遭わされるという印象により「自分の人生はついていない」と不幸な人生を嘆くようにもなります。
ですから大げさに思われるかもしれませんが、当時の私は自分が世界一不幸な人間だと思っていました。
このような極端な思考に陥るのも、自分には何の非もないのにも関わらず人生が上手いっていないためです。

以上のことから、特に抑うつ型の自己愛的な性格構造の人が感じる「生きづらさ」の大きな原因は、自分の関与に関する自覚のなさであり、それゆえその生きづらさから抜け出す第一歩は、まずは自分がしていることが相手に与える影響への自覚を持つことと言えます。
いつも「自分は何も悪くないのだから、相手が考えや態度を改めるべきだ」と考えていては、対立を招くばかりでしょう。

次回は同じ例を元に、このような無自覚が生じる要因について考察する予定です。

追伸)投稿後に、以前に「自ら不愉快な状況に身を投じ、それでも被害感情を募らせる~自己愛講座25」という似たような内容の記事を書いていたことに気づきました。
以後、気をつけます。

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カウンセラー プロフィール

田尻健二
保有資格:
産業カウンセラー
米国NLP協会TM認定NLPマスタープラクティショナー
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