10423338_660480230700709_58030714_n.jpg


自己愛性人格障害・自己愛障害 一覧


数日前に自己分析のブログに「どんな言いつけも絶対に守らなければならないと考えていた子供時代@自己分析」という記事を書きました。
今回はこの記事の私体験を元に、特に抑うつ型の自己愛的な人の「気質」と呼ばれる生まれながらの性格傾向について取り上げます。

生まれつき親の期待に非常に敏感な才能に恵まれた可哀想な子ども

リンク先に書かれていますように、幼少期の私は(文字どおりの意味で)どのような言いつけも絶対に守らなければならないと考えるような子供でした。
そのため「お昼ご飯は残さず食べなさい」という言いつけを守るために、自ら率先して床に吐いた食べ物まで食べようとしたのです。

私のような頑なさは極端な例としても、相手が自分に何を期待しているのかを非常に敏感に感じ取り、その期待に必死に応えようとする子供たちのことが以前に紹介した『才能ある子のドラマ』に綴られています。
そしてこのような子どものことを著者のアリス・ミラーは「可哀想な恵まれた子」と称しています。

才能に恵まれた子が、なぜ可哀想なのでしょうか?
いっけん相手の期待を敏感に察知し、それを満たせる人は「気が利く人」と評価されるなど、良好な人間関係を築けるように思えるかもしれません。
しかしそれは大人になるにつれ、そのようなスキルを徐々に身について行った人のケースで「気質」と呼ばれる生まれながらの性格傾向としてこのような才能を身につけている子どもの人生は、それとは大きく異なります。

その才能ゆえに親の期待を一身に受けることになる

どのような親でも人間である以上、子どもに「○○のような人間に育って欲しい」との期待を寄せ、その期待に適うように多少なりとも子どもをコントロールしてしまいがちです。

この場合、いちいち言わなくても自分が何を望んでいるのかを敏感に察してくれる子どもと、口やかましく言ってもなかなか言うことを聞いてくれない子どもがいたとしたら、どちらのタイプの子どもにその期待が向けられやすいでしょう?
答えはもちろん前者のような子どもです。何でも言うことを聞いてくれるので、とても楽だからです。いわゆる「手のかからない」子どもの典型です。

こうして生まれながらに親や他人の期待に非常に敏感に感じ取る才能に恵まれた子どもは親の期待を一身に受け、対してそうではない子どもはそれほど親のプレッシャーを受けることなく、ある意味伸び伸びと育って行きます。
うちの親も「弟には言っても仕方がないから、もう諦めている」が口癖でした。

期待は愛情とセットで注がれる

さらに違いは、これだけではありません。
聞き分けの良い子と、苦労が絶えない子とでは、どちらの子の方がより可愛く思えるでしょう?
こちらも恐らく前者でしょう。

こうして場合によっては溺愛に近いような愛情が偏った形で注がれるようになり、その結果渦中の子どもに対して「お前を愛しているからこそ人一倍期待もするのだ」、つまり「期待=愛情の証」というメッセージが届けられることになります。

これはその子にとって相当なプレッシャーです。
なぜなら少しでもその期待に背くことは、親の愛情を裏切り悲しませることになってしまうためです。
またそうして悪い子になってしまうことで親の愛情を失う不安も生じるため、その子はそれを回避するために益々その才能に磨きをかけ、これまで以上に親の期待に必死に応えようとするでしょう。

こうして親の期待に応えることが人生の目的そのものと言えるような、とても聞き分けの良い、親からすればある意味理想的な「良い子」が誕生します。

親の期待は愛情を一身に受けることは自己愛的な特権意識や優越感の温床ともなる

さらにこの才能がもたらす影響はこればかりではありません。
期待や愛情を一身に受けるということは、その子に「自分は選ばれた特別な子ども」との特権意識優越感を生じされ、これがDSMの自己愛性パーソナリティ障害の診断項目に列挙されているような特徴の温床ともなります。

こうして他人を強烈に蔑む一方で、他人のニーズに過敏に反応し従属するような態度を取るという自己愛特有の非常に二面的な性格構造を発達させていきます。

他方の子どもが反社会的な人間に育ってしまうリスクも抱えている

またこのような偏った子育ての仕方は、他方の子どもにとっても同じほどに有害です。
親から少しも期待や愛情を注がれないことがどれほど辛いことであるのかは説明不要でしょう。

またそのような無関心な親の態度があまりに酷いと、もっとも治療が難しく、かつもっとも犯罪率が高い反社会性パーソナリティの温床となります。

子どもが自分の思いどおりに育つことに何ら違和感を感じない親は極めて自己愛的な人間

最後に今回の内容の主たる原因が子供の悲劇的な才能にあるとの誤解を招くといけませんので、その点を補足します。

子どもの才能に促されたものとはいえ、平均的な親であれば、どこかの時点で子どもの様子や自分の態度に違和感を感じるはずです。
もしその違和感をほとんど感じず、子どもが自分の思いどおりに育っていることにただただ満足している親がいるとすれば、その親はコントロール欲求が非常に強く、他人を自分に満足感を与えるための道具のよう存在とみなしているような極めて自己愛的な人間でしょう。

参考文献

アリス・ミラー著『新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて』新曜社


今回の自己愛講座は、特に抑うつ型の自己愛的な人に当てはまることの多い、自ら不幸を招くような行動をとる傾向についてです。
その極端な例として、私の若い頃のエピソードを題材に考察を進めていきます。

知人が一緒にいるにもかかわらず瞑想を続ける

30代前半の頃の出来事です。知人とその人がよく行くお店にいったところ、その人の知り合いが大勢いて、このあと近所のカフェでみんなでお茶しようという話になりました。
ところがその場で話が盛り上がり、なかなかカフェに移動する気配がなく知り合いが一人しかいないため疎外感を感じ始めた私は、一人で先にカフェに移動して当時ハマっていた精神世界の本を読むことにしました。

しかしよほど話が盛り上がっているのでしょうか、なかなか知人たちがカフェにやって来ません。
そのため今度は自分の存在が忘れ去られているように感じ始め惨め気持ちになって来ました。
そこで気分を落ち着けるために、目を閉じて瞑想することにしました。

やがて知人たちがやって来ましたが、私は瞑想を止めませんでした。
それを見て気分を害したと思ったのでしょう。知人が遅れたことを詫びましたが私は「別に気にしてませんよ」と伝え、また目を閉じて瞑想を続けました。
するとどう対処して良いのか分からなくなり気まずくなったのでしょう。知人たちは別のテーブルで話を始めました。
私は自分が除け者にされたことで、ますます疎外感を感じました。

自覚なしに自ら不幸を招くような行動をとることで、他人を恨み不幸な人生を嘆く

ここで重要なのは、自分の行動が原因で余計に不愉快な思いをしていることについての自覚がほとんどないということです。

※ですからこの時の私の病態水準はパーソナリティ障害水準に、つまり自己愛性パーソナリティ障害もしくは回避性パーソナリティ障害の診断がつく可能性があると言えます。
(詳しくは「病態水準の違いによる、陰口や噂話の知覚や解釈の仕方の変化」をご覧ください)

そして自分が原因の一端を担っている自覚がないために、不快な体験をすれば、それは半ば自動的に他人のせいとされます。
このため親しい人に対してさえ些細なことから恨みを抱き、それが元で簡単に疎遠になってしまうことも少なくありません。

また、その他人から嫌な目にばかり遭わされるという印象により「自分の人生はついていない」と不幸な人生を嘆くようにもなります。
ですから大げさに思われるかもしれませんが、当時の私は自分が世界一不幸な人間だと思っていました。
このような極端な思考に陥るのも、自分には何の非もないのにも関わらず人生が上手いっていないためです。

以上のことから、特に抑うつ型の自己愛的な性格構造の人が感じる「生きづらさ」の大きな原因は、自分の関与に関する自覚のなさであり、それゆえその生きづらさから抜け出す第一歩は、まずは自分がしていることが相手に与える影響への自覚を持つことと言えます。
いつも「自分は何も悪くないのだから、相手が考えや態度を改めるべきだ」と考えていては、対立を招くばかりでしょう。

次回は同じ例を元に、このような無自覚が生じる要因について考察する予定です。

追伸)投稿後に、以前に「自ら不愉快な状況に身を投じ、それでも被害感情を募らせる~自己愛講座25」という似たような内容の記事を書いていたことに気づきました。
以後、気をつけます。


前回の「空虚感から意識を逸らすために常に何かしていないと落ち着かない~自己愛講座26」の中で、自己愛的な人はストレスを避けるために「とにかく何でも良いから、何かしていないと落ち着かない」旨のことを書きましたが、これはあくまで解釈で、実際に自覚される感覚は必ずしも「とにかく何でも良いから」とは限らず、むしろ特定のことに興味が、ただし急に湧くケースもあります。
そしてこれが今回述べる飽きっぽい性格の一因となっていると考えられます。

なお、今回の内容は主に回避性パーソナリティ障害の診断項目が当てはまるような抑うつ型の自己愛性パーソナリティの人に言えることで、自己愛性パーソナリティ障害の診断項目が当てはまる誇大型の人には的外れなケースが多々あります。

急に「生き甲斐」を見つけた感覚に襲われる

私自身もかつて頻繁に経験したことですが、特に抑うつ型の自己愛性パーソナリティの人は、あるとき急に特定の事柄に無性に興味が湧くことがあります。
しかもその関心の度合いは非常に強く、ちょうど前回の記事の「とにかく何でも良いからしていたい」状態と同じような、居ても立っても居られない感覚に襲われることも少なくないため、多少お金がかかるようなものであっても、検討するまもなく飛びつき、それに没頭することが少なくありません。

これは今までの不満足な人生をすべて帳消しにくれるほどの力を持つ、長い間探し求めていた生き甲斐をとうとう見つけたような感覚に襲われるためです。

趣味がすぐに「天職」へと昇華する

しかもその関心事は趣味の段階をすぐに通り越して天職へと昇華するため、そのための先行投資を惜しまない人も少なくありません。
これは既に述べましたように、いずれ近いうちにこれまでの辛い人生をすべて帳消しにくれるほどのバラ色の人生が待っているのですから、今はどんなにお金がかかったとしても十分に元が取れように思えるためです。

耐え難いほど憂鬱な気分の時には「理想化-価値下げ」の働きにより、関心事が天職にまで高められる

これらのあるとき急に特定の事柄に無性に興味が湧き、それが瞬く間に天職にまで価値が高められてしまうことも、私の専門の自己愛の心理の働きによるものと考えられます。
加えて今回のような非常に極端なケースに陥るのは、前回述べた空虚感の前駆症状である「何もすることが無くて落ち着かなくなる」状態よりもさらに深刻な、耐え難いほどの憂鬱な気分の状態にある時と想定されます。

以前に「理想化-価値下げ」の防衛機制が自己愛的な症状を生み出す~自己愛講座8にも書きましたように、誇大型、抑うつ型の違いを問わず、自己愛的な性格傾向の人は「理想化-価値下げ」と呼ばれる防衛機制の働きにより、常に自分を他人と比較し、どちらが優れているのかということに非常にナーバスになっていますので、自分が憂鬱な気分の状態にある時には、その対比として必然的に誰かや何かが過度に理想化されることになります。

しかもその憂鬱な気分が深刻であればあるほど、そのような危機的な状態にある自分をすぐにでも救い出してくれる存在を必要としますので、その理想化はますます激しいものとなります。
この救世主願望の働きにより、これまで多少興味があった程度のことが急に素晴らしいものに思えて来て、さらにそれが天職にまで高められてしまうのではないかと考えられます。

憂鬱な気分の解消に伴い、救世主役の関心事は用済みとなる

しかしその関心事も下駄を履かされたゆえに高い価値を有していたに過ぎません。
そのため生き甲斐を見つけた喜びにより憂鬱な気分が解消するに伴い、その救世主役とされていた関心事は用済みとなり、下駄を外され元の評価に逆戻りしてしまいます。
これが特に抑うつ型の自己愛的な人の、熱しやすく冷めやすい飽きっぽい性格を生み出しているのではないかと考えられます。

このページの上部へ

カウンセラー プロフィール

田尻健二
保有資格:
産業カウンセラー
米国NLP協会TM認定NLPマスタープラクティショナー
プロフィール詳細


サイト内検索

カテゴリ




このHPとは異なる情報をFBページにも投稿しておりますので、こちらもフォローしていただけますと嬉しいです↓

最近のピクチャ

  • DSC01342_f.jpg
  • 松木邦裕著『対象関係論を学ぶ―クライン派精神分析入門』